松浦亭の書棚

雪の降る町


   0

「ねえ、君どこの子?」
「……」
「僕の言ってること分かる?」
「○×▽■」
「ごめん、東北弁は分からないんだ」
「……」
「……」

「僕と一緒に遊ぶ?」
――コクン。

   1

 年末が近づいている。
 この時期になると、友人知人はこぞって旅行支度を始める。目的地は南の島だったり、スキーリゾートだったり。しかし、僕にとっては正月は田舎でゴロゴロして過ごすものであり、それ以上でもそれ以下でもない。寂寥感が漂う町に独りで住む祖母の顔を見に行くだけだ。
 僕の父方の祖母は、十六年前に祖父が他界しても東京には出てこなかった。僕の父を含めて三人いる息子は、全員東京で仕事をしている。僕は当時小学四年生だったから、詳しいいきさつは覚えていないが、祖父の葬儀では誰もが家を処分して東京に出てくるように祖母を説得していたらしい。
 けれど、祖母は今も家を守っている。僕が、なぜ東京に来ないの? と聞くと、何かあったときに田舎がある方がいいでしょ、と答えた。満州から引き上げてきた経験を持つ祖母は、そのうち息子や孫たちが疎開してくるとでも思っているようだった。
 しかし、疎開をするような状況はいっこうに訪れないし、盆や正月に帰省をする息子や孫は年を追うごとに減っていった。それでも、数年前までは僕の家族だけは帰省していたが、父が国外に単身赴任し、弟が海外留学すると、正月に顔を出すのは僕と母だけになってしまった。
 ここ二三年はそんな正月が続いていた。

『忘年会のお知らせ』
 早朝のオフィスでメールをチェックすると、そういう件名のが入っていた。
 僕は、とある中堅企業の下請け会社でSEをやっている。フレックス勤務が悪い方に作用している職場で、十時をすぎないと他の社員は来ない。もっとも、その人たちは夜中まで働いているし、僕は八時までには帰るから実質労働時間は同じようなものだ。
 細かい連絡から雑談まで、すべてがメールやチャットで行われているような職場だったから、当然飲み会の出欠もメールだった。
 人によっては、直接話をしないのは精神衛生上好ましくないと言うかも知れない。しかし僕にとってはこちらの方が気楽だ。いつ話しかけられるか分からないような状況は緊張感を強いられるし、顔をつきあわせて話をするのはストレスになる。
 とにかく、メールの良いところは断りやすいという点につきる。自分のペースで適当な言葉を探して返信すれば、非常にスマートに欠席を知らせることが出来るのだ。
 僕はまだ誰も来ていないオフィスで朝のコーヒーをすすりながら、必要最小限のメールを作成し返信しておいた。
 師走というのは大の月だが、その実二月より短いように感じることがある。各所で堰を切ったようにクリスマスツリーやライトアップが設置され、情報誌はこぞってレストランやホテルの特集を組み、世間を煽る。
 会社帰りに本屋を冷やかしに新宿に寄ると、街中が浮かれているのがよく分かる。ついでに食事をしようとすれば、自分以外の客がすべてカップルだったりして落ち込むこともあった。

「望、正月はどうする?」
 二十六歳という僕の年齢を気にしているのか、父は遠回しに帰省の話を持ってきた。単身赴任の父も休みが取れて、さらに弟も帰国したとあって、久しぶりに一家そろって帰省が出来ると思っているのだろう。
「別に予定はないよ、いつも通り帰省するよ」
 そう答えたのが先週のことで、気がつけば仕事納めになっていた。
 客先に常駐している関係で、忘年会に出ないのはあまりいい印象を与えない。だから、僕は定時ぎりぎりでトイレに行くかのようにそっと職場を抜け出した。
 地下鉄に揺られながら、前回家族全員で帰省したときのことを思い出そうとした。
 もう三年も前のことだ。
 僕は当時、まだ大学の四年で、卒論の発表を終えて抜け殻みたいになっていた。最近の就職活動には内定鬱というのがあるらしいが、まさに僕はそれだったのかも知れない。とにかくなにも手につかないし、気ばかりが焦ってイライラしていた。
 しかし、田舎で祖母の話し相手になりながらゴロゴロとしていると、不思議と時間にとらわれなくなっていくのが分かった。それまではテレビを見ていても、時間を無駄に使ってしまったと後悔していたが、あのときはコタツに当たりながら、一年間を振り返る報道番組を見たりしていた。
 はっきりと意識したことはなかったが、正月に帰省することは自分の中では特別な儀式なのかも知れない。田舎で過ごす数日間、それは僕にとっては非日常的な時間なのだ。朝晩に数十分顔を合わせるだけの母をのぞけば、他は普段は話もろくにしない家族だから何となく新鮮だし、逆に生活の大部分を占めている会社でのしがらみはここでは無意味だ。
 そんなことをぼんやりと考えていると、いつの間にか電車は南阿佐ヶ谷駅に着いていた。

   2

 東北地方の玄関口、福島県にある父の実家には、たいてい車で行く。東北新幹線と在来線を乗り継いでも行くことは出来るが、料金は高くなるし、向こうでの足がないのは不便だからだ。
 東京の武蔵野に住む関係で、都内を抜けて東北自動車道までは結構時間がかかるが、そこから先は渋滞を見越して早朝に出発すれば、距離の割には早く着くことが出来る。
 自分で車を運転するようになってからは、道や地名も覚えたのでそれほど感動はないが、子供の頃はこの時期に出かけることには何となく特別な思いがあった。時速百キロ以上で流れている高速道路。サービスエリアでの買い食い。そして、広々とした田園風景。
 普段、どこまでも続く住宅地に住んでいると、こういうのは特殊な体験になる。
 あの頃と比べたら、今の自分はなんと味気ない人間だろう。感動はおろか、感傷すら感じなくなっている。
 今回は、普段自分で運転する機会のない父がハンドルを握り、僕は後部座席で目を閉じていた。途中一度だけサービスエリアでトイレ休憩にしたが、あとはひたすら走り続けた。昔のようなたわいない会話もなかったし、頻繁に休憩することもない。ただ黙々と田舎へ向かった。

 到着すると、玄関の鍵は開いていた。途中で電話を入れておいたので、祖母が気を利かせて開けておいてくれたのだろう。もっとも、築五十年の木造家屋で、玄関戸もレールの上を滑らせるタイプの木製の引き戸だったから、鍵が閉まっていても扉ごと外せば入れてしまうかも知れない。
「こんちは!」
 最近祖母は耳が遠くなった。茶の間でテレビでも見ていると、呼び鈴を鳴らしたくらいでは気づかない。僕は廊下に顔を出して、手でメガホンをつくって到着したことを知らせた。
「あら、いらっしゃい」
 車から荷物を次々と運んでいると、祖母は玄関まで出てきた。
「二階にお布団を敷いておきましたからね」
「どうもありがとうございます。これ、うちの母からのおみやげです」
 僕らが荷物を二階に運ぶ横で、母は東京土産を渡していた。中身はモナカだ。毎年おきまりのもので、さらに大抵はお茶菓子として僕らの胃袋に収まってしまう。まったく、誰のためのお土産なのかよく分からない。
 福島の冬は寒い。岩手や青森、それに北海道はもっと寒いのだろうが、僕が知っている冬ではここが一番だ。あとから増築した部分はアルミサッシだったが、元からある部屋はサッシも木製だ。畳の上を歩くたびにサッシはがたがたと鳴り、すきま風が吹き込む。
「うー、寒」
 荷物を投げ出すと、僕は茶の間へ直行した。祖母は主に茶の間で一日を過ごしている。だから、そこはいつでもガスファンヒーターが動いていて、この家の中では一番暖かい。さらに、部屋の中央には小さいながらも掘り炬燵があるので、足を突っ込んでいるとうとうとと寝てしまいそうになる。
「望、線香はもうあげたのか?」
 車にガソリンを入れてきた父も茶の間に入ってきた。
「まだ」
 茶の間の隅にある仏壇のロウソクに火をつけて、家族全員で祖父に線香をあげた。こういう場合、ふつうの人は帰ってきたことの報告をするのかも知れないが、僕は貧乏性なのか、なにか願い事を言ってしまう。神と仏を取り違えているといえるかも知れない。
――来年こそは、彼女が出来ますように。

   3

「よし、大掃除するぞ」
 炬燵に入って日本茶でも飲みながらゴロゴロしようと思っていたら、父がそんなことを言い出した。
「よしなさいよ。どうせもう壊すだけの家なんだから」
 祖母はそんなことを言って、目をしょぼしょぼさせている。こんな風に言われたら、やらずにはいられない。
「僕も掃除するよ」
 僕ははたきを持って二階へ上がった。二階は六畳間と八畳間があって、六畳間の方には立派な床の間がついている。掛け軸はこれといって気にならないが、キジや狸の剥製は子供の頃は怖くて、前を通るときはなるべく見ないようにしていたものだ。
 剥製を納めているガラスケースや、茶箪笥をはたいて埃を飛ばす。普段の生活では、滅多に二階には来ないのだろう。目ではっきりと見えるほど埃っぽかった。
 天気は薄曇りだった。磨りガラスを通して差し込む弱い光が机の上の白い布で反射して、剥製たちをよけいに浮き立たせる。その光景は三十年くらい前の博物館のような感じさえする。
 この家は昭和のままなのだ。そして、祖母もその時間を止めてしまっている。
「掃除機、二階持ってくぞ」
 下で父の声がした。
「わかった」
 階段まで掃除機を受け取りに行く。以前は掃除機もかなりの年代物だったが、何年か前に近くのホームセンターで新しいものを買ったので、今は快適そのものだ。ヘッドは自由に回るし、吸い込み強度も申し分ない。欲を言えば、コードレスだったら良かったのにと思う。古い家だからコンセントが少ないのだ。
 掃除機を一通りかけ終わり、窓を閉めようとしてベランダに近づくと、庭に誰かいるのが目についた。よくみると、季節はずれの白いワンピースを着ている子だった。
 この家の庭は裏の家と行き来できるようになっていて、裏の家の住人は表通りに出るときの近道として庭を通っていく。裏の家の住人がどんな家族構成なのかは知らないが、たぶん僕らと同じく帰省してる孫かなんかだろう。
 その子は庭でしばらくぶらぶらしていたが、あんまりじっと見ているとあらぬ疑いをかけられそうだから僕は窓を閉めて掃除機を片づけに行った。
 掃除機は普段、台所の隅にしまってある。僕は力を入れて物入れの扉を開いた。
「ばあちゃん、また建て付け悪くなったんじゃない?」
 祖母の家は、廊下を挟んで半分が地盤沈下の影響で傾いている。何年か前、僕は剥がれかけた塗り壁に透明なビニールテープでテーピングをした。その時より、さらに悪くなっているようだった。
「そうなのよ。もうこの家も駄目ね」
「最近は家の傾きをジャッキで持ち上げて直す業者がいるらしいよ」
 廊下をぞうきんがけしていた弟がそんなことを言った。
「もういいのよ。わたしが死んだら誰もこの家住まないでしょ」
 そんなことを言う、祖母の表情はいつもと変わらない。祖母はこの家と自分の寿命は同じだといつも言っていた。
 満州から引き上げてきて、医者だった祖父が建てた病院と自宅。その建物が朽ちるとき、自分の命も消えるのだと考えているようだった。
「それよりさ、裏の西島さんのところって孫かなんか来てるの?」
「さあ、どうかしらねえ。息子も滅多に帰ってこないってこぼしてたけど。誰かいるみたいだった?」
「ああ、なんか小学生くらいの子が歩いてたから」
「じゃあ、違うわ。お孫さんがいるけど、この前大学がどうとかこうとか言ってたから」
――じゃあ誰なんだ、あれ。
 なにか心に引っかかるものがあった。でもそれは、たぶん重大なことではない。
 この歳になっても、まだ異性の友達すらいないキモヲタだから、たぶん無意識のうちに女の子を見ると自分との関係を妄想してしまうのだろう。
 そういう苦い経験は掃いて捨てるほどあった。
 たとえば、駅の券売機で前にならんでいたちょっとかわいい娘と同じ方向の電車だったりすると、その娘が降りるまで何となく見ていたり、バイト先の女の子同士が休憩時間に恋愛話をしていると、本を読んでいるふりをしながら聞き耳を立てて、その話に自分を当てはめたりするのはよくあることだった。
 失恋するだとか、玉砕するだとかは、決して不幸なことではない。流れる涙は大切な時間を過ごしていたことの証明だ。本当の不幸とは、なにもないことだ。朝、会社に行きパソコンに向かって一日を過ごし、かえって寝るだけの生活。休みの日には朝寝や昼寝をしてぼんやり過ごす。なにも起きないし、なにも始まらない。そして、そのことについて何とも思わなくなるのだ。

 翌日。天気は西高東低の典型的な冬型の気圧配置で、風に乗って雪が舞っているものの穏やかな日が差していた。
「スキーでもしに行くか?」
 久しぶりの帰省で父は活動的になっていた。最近の父は不景気の影響で暗い顔をすることが多くなっていたから、水を差すのも悪いと思い、一緒にスキーに行くことにした。
 母はおせち料理の手伝いをするために家に残ると言ったので、弟との三人で出かけた。
 僕がまだ子供だった頃、うちの車はワンボックスだった。パワーは無いし、二輪駆動だし、おまけにタイヤはノーマルだった。
 平地を走っているときはまだよかったが、山道にさしかかるとチェーン脱着所で金属チェーンを苦労してまいた。当時はスノーネットタイプだとか、車を移動させないで装着できるような商品だとかはなかった。僕ら兄弟が雪合戦をしている横で、父は手を真っ黒にして作業をしていた。
 あれから十五年以上たつ。
 車は四輪駆動のステーションワゴンになり、馬力は二百馬力を超え、タイヤは四本ともスタットレスタイヤだ。平地も雪道も、遅い車を追い抜きながらスキー場へと快適なドライブを楽しむ。
 僕はチェーン脱着所を通り過ぎるとき、そこで作業をしている車に目をやった。ミニバンに乗った家族連れだった。小さな子供がはしゃぎまわり、やはりお父さんらしき人がスノーネットと格闘していた。
「うちも昔はチェーンまいてたね」
 そんな話を振るつもりじゃなかったが、気づくと口からこぼれていた。
「そうだな、大変だったんだぞあれは」
「でも、なんか冒険してるみたいでわくわくしてたよ」
 雪山にいるのだということ。チェーンまいて、苦労しなければ行けないところに行くのだということが、子供心をくすぐった。
 いつも行っているスキー場は、国定公園の中にぽつんとある小さなゲレンデで、近くにはホテルもペンションもない。地元の客が半分、それから車で三十分ほどのところにある温泉から来る客が半分だった。
 ゴンドラなんて当然なく、二人乗りの遅いリフトが数機あるだけだ。
 正直、僕は運動は苦手だ。体育の授業などは憂鬱で仕方なかった。けれど、スキーだけは別だった。
 初めてスキーを履いたのは小学校二年くらいの時だったと思う。立つことさえ難しく、ひたすら転んでいた。転び方もなってないから、立ち上がるのに苦労した。
 手袋や靴の中に雪が入り、冷たくなって泣き出したそうだ。それで父が、もうやめて帰るか? と聞くと、やめない、と頑固に答えたそうだ。
 そのおかげか、スキーだけは人並みに滑れるのだった。これは、なにをやらせても人並み以下の仕事しかできない僕にしては珍しいことだと思う。
 リフト券売り場で五時間券を買って、午前中数本滑った。リフトを乗り継いで山頂付近まで行くと、平野部が一望できる。所々にあるゴルフ場は、巨人の足跡のように見えた。
 昼はレストハウスでカツカレーを食べて一休みした。ここはレストハウスも古く、赤いトタン屋根と焦げ茶色の壁が年代を感じさせる。正月休みでシーズン中だというのに、簡単にあいているテーブルを見つけることが出来た。
 カウンターの向こう側、厨房では割烹着を着たおばちゃんたちが雑談をしている。
「正月休みなのに、この様子じゃ経営も大変だな」
 一足先にラーメンを食べ終わった弟がそんなことを言った。
「不景気だからな。どこもしんどいんだろ」
 祖母から聞いた話では、ここと温泉街の間にもう一つ新しいスキー場が出来たらしい。設備などはいいそうだから、ここの客もかなりそっちに流れているのだと思う。
「ちょっとトイレに行ってくる」
 お世辞にも清潔とはいえないトイレは半地下にあって、ロープの手すりにつかまりながら氷がこびりついている階段を下りる。履いているのがスキー靴でなかったとしても、慎重に歩かないと危険な階段だ。
――あれ? ねえ、ちょっと。
 階段の中央を軽快な足取りで駆け下りていく少女がいた。昨日庭で見かけた少女だと思う。少女は声にならない僕の呼びかけに答えるように振り向いた。昨日と同じ格好をしていた。とてもスキー場に来るような服装ではない。
「――?」
 小首をかしげて、不思議なものを見るような目で僕を見ている。
 風が吹き込み、少女の黒髪がほんのり紅い頬にかかった。
「君、石山町から来たんじゃない?」
 ふるふる。
 少女は首を大きく振って、否定した。
「昨日、石山の家のベランダから、庭にいた君を見たんだけど……」
 こくん。
 今度は縦に首を振る。
 つまり、昨日掃除機を抱えた僕がベランダから見たのはこの少女に間違いないが、西島さんのところの子ではないし、石山町の他の家の子でもないということか。
「あの――――」
 会話をつなごうとしたが、意味のある言葉が思い浮かばないでいる間に、少女は軽い足取りで立ち去ってしまった。

 午後になると風が出てきた。
 滑っている間はまだいいが、リフトに乗っているときに吹き付ける雪交じりの風は堪えた。帽子で覆っている耳はまだいいが、頬は感覚が麻痺するほど冷えた。
 三本ほど滑ったところで父がリタイアして、レストハウスに入った。
「ビールでも飲んでるから、適当に滑ってこいよ」
 いつまでも変わらないと思っていた父も、確実に歳を取っているのだ。
 父も母も、そして祖母も確実に歳を取り衰えていく。思い出はだんだんと遠のいていくのだ。
 もやもやした気持ちを吹き飛ばすように、弟と二人猛スピードで、座り込んでいるスノーボーダーに雪をかけながら滑った。
 FMなどが聞こえないゲレンデを滑っていると、急に心細くなることがある。聞こえるのは板が雪をとらえる音と、自分が風を切る音だけだ。スピードを落とせば、それさえもなくなり無音の世界が広がる。
 数十キロ先の景色まで見えるような広い空間にいるのに、音の情報がいっさい入ってこないというのは、都会の暮らしに慣れた身には不思議な感じがする。
 レストハウスに戻ると、父はフライドポテトをおつまみにビールを飲んでいた。僕らも少し腹が減ったので焼きおにぎりを二つ食べ、スキー場をあとにした。
 帰りの車中、僕はレストハウスで見かけた少女のことを考えていた。それは、寝起きに見ていた夢を必死に思い出そうとするのに似ている。あの少女は、なにか特別な夢を思い出すためのキーワードのようなものなのではないかと僕は感じていた。

   4

 爪を切ったりひげを剃ったり、大晦日の夜は何かと忙しい。何となくそれぞれが家の中でばたばたしている。母は祖母と一緒に夕飯の片づけをし、弟はマンガ雑誌を読んでいる。僕は、少し早いが携帯がつながらなくなる前に、高校時代の友人にメールで挨拶を送っておくことにした。
 暗黙の了解とでも言うべきか、紅白が始まる頃になると自然と茶の間に集まってテレビを見る。弟は途中から、台所に格闘技の番組を見に行ったが、僕は炬燵に足を突っ込んで横になり、ぼんやりと天井を見ていた。
 黒くすすけた天井板は、五十年以上ここで暮らす家族を見てきたのだ。そしてあと何年、僕はこの天井を見ていられるのだろうか。
 演歌を耳にしながら天井を見上げていると、そんなことが頭をよぎった。
「望ちゃん、蜜柑食べない?」
 祖母はしきりに食べ物を出す。
「ミカンはいいや。お茶を一杯くれる?」
 炬燵に入っていると、やたらとのどが渇く。
「山木さんのところの奥さんね、ここの前の通りで交通事故にあったのよ」
「へー」
 父が相づちを打つ。
「それが相手が悪かったらしくて、そのまま逃げられちゃったんだって。ちょっとヤクザっぽい車だったっていうから嫌ね」
 祖母は今日だけでこの話を三回している。僕はそのことを指摘しようかと思ったがやめた。
 父のように相づちを打って、祖母が話を聞いてもらえているのだと実感できればそれでいいのかも知れない。

「ちょっとトイレに行ってくる」
 名前も顔も知らないアイドル歌手が出てきたところで、僕はトイレに立った。障子戸を開けて廊下に出ると、皮膚がぴりぴりするほど寒かった。一歩一歩進むたびにきしむ廊下を突き当たりまで行くと、外に誰かいるような気配がした。
 トイレはすぐそばだが、僕は病院との渡り廊下が見える窓に近づいた。磨りガラスだから確かではないが、誰かがいたように見えたのだ。
 ねじ式の鍵を外して、ガラス戸を少しだけ開ける。その隙間から渡り廊下に目をやると、あの少女が病院の方へと歩いていくのが見えた。
 病院は祖父が死んで以来、そのまま放置されている。入り口の木戸は腐ってきてついに開け閉めにも支障が出始めたと聞いていた。なぜそんなところに、この時間に行くのか全く分からない。季節はずれの肝試しだろうか。
 少女はこともなしげに木戸を開けて、病院の中へと入っていった。廊下の闇へと消える前に、一瞬こちらを振り返り、わずかにほほえんだように見えた。
――狐か狸にでも化かされているのだろうか。それとも少し飲み過ぎたか。
 僕は嫌な胸騒ぎを覚えて、茶の間へと引き返した。
 紅白はまだ続いていたが、祖母と母は年越しそばの支度にかかり、父はうたた寝をしていて茶の間は閑散としていた。
 僕は手元にあったビデオカメラの電源を入れた。ここに帰ってくるたびに撮りためているテープが入っている。そのテープを巻き戻して再生した。かなり古い型のビデオカメラだから、液晶画面はついていない。ファインダーをのぞき込んで再生画面を確認する。
 そこには、数年前の祖母の姿があった。この部屋、この場所。全く同じだが、ファインダーの中の祖母の目は、しっかりとまわりを見つめている。それに比べて、今の祖母はすっかり元気がなくなってしまった。
 祖母がこの世からいなくなってしまったあとも、僕はこのテープをここで見るのだろうか? そんなことを考えたら、不意に涙が出てきた。感情が高ぶったわけではない。何の予兆もなく、ただ涙が頬を伝った。
 もう少し前のテープはどうだろうか?
 僕は八十年代のテープを回してみた。祖父の葬儀で親戚一同が集まったときの映像が残っていた。カメラを回しているのはおそらく僕だろう。画面はがくがくと揺れて、アップとワイドを頻繁に繰り返している。
 そこに彼女はいた。
 おそらく通夜の準備で忙しく、誰もかまってくれなかったのだろう。子供だった僕はビデオカメラを片手に庭に出ていたようだ。庭に置いてあったブランコに、白いワンピースを着たあの少女が座っていた。
――バカな! 十五年も前のビデオなんだぞ。……あり得ない。
 画面の中の少女と目があった瞬間、僕はすべてを思い出した。

「……」
 思っていたとおり、彼女は病院の診察室にいた。机の上に座って、足をぶらぶらさせている。
「君はあのとき、じいちゃんを迎えに来たといっていたね。当時の僕は何のことか、よく分かっていなかった。でも、今度は違う。連れては行かせないよ」
「×■▽」
 日本語もつたなかった当時は、不思議なことにコミュニケーションがとれたが、今となってはもう少女の言うことはまったく分からなくなっていた。
 少しずつ少女に近づき、僕はその細い首に手をかけた。

   5

 箱根駅伝も終わり、いよいよ東京へと帰る日が来た。
 夕食後にコーヒーを煎れて、全員で炬燵を囲む。誰も何とも言わないが、何となくそわそわした空気が漂っていた。
 外はしんしんと雪が降っている。綿毛のような雪は町の音を消し去り、この世には自分たちしかいないような錯覚さえ覚える。これからまた、祖母は雪に包まれたこの町で一人暮らしていくのだ。
「そろそろ行くよ」
 父が切り出して席を立った。
「じゃあ、外まで送るわ」
 炬燵に手をついて、ゆっくりと祖母も立ち上がった。
「寒いから、暖かい格好してよ」
「大丈夫よ、慣れてるから」
 車に乗り込み、窓を開ける。祖母の表情は冴えない。やはり寂しいのだろう。
 でも大丈夫だ。また僕はこの町に帰ってくるよ。


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