1 「いらっしゃいませ! ご注文おきまりでしたらどうぞ」 駅前のファーストフード。三つ並んだレジでは、笑顔の店員さんがマニュアル通りに出迎えてくれる。 僕はどの列に行くべきか悩み、千鳥足のおじさんのように、フラフラとしながら結局まんなかのレジに行った。 アイスコーヒーとポテトを注文にして、もう一品くらい頼もうかと考えていると、間が持たなくなってきたので、 「それだけでいいです」 と弱々しく答えて、おとなしく待つ。 このことからも分かるように、僕は相当な小心者だと自分でも思う。動物占いはやったことがないが、たぶん小動物だ。 商品を受け取り、二階に上がる。 ちょうど放課後だったから、学生服姿のグループがいくつか座っていた。 ぐるりと一巡りすると、一番隅っこのトイレに近い席に、桜木唯ちゃんがちんまりと座って、飲み物のカップを両手で包んで飲んでいた。 「や、やあ」 つきあい始めてもう半年以上たつが、未だに唯ちゃんと僕がつきあっているという事実が夢のことのように思えて仕方ない。 もしかしたら、これはすべて自閉症の僕が見た夢なのではないかと、本気で疑いたくなるようなことなのだ。 「あ、お兄ちゃん!」 唯ちゃんは長い三つ編みを揺らして、こちらを見上げた。なんだか、いつもより目がキラキラしているような気がする。 ううっ。 長めの前髪がかかった、銀フレームのメガネ越しのキラキラ光線で、僕のチキンハートはガタガタといい始める。 「今日は学校早く終わったの?」 心を静めて、何気ない会話をひねり出す。 「うん。うちのクラスだけ、先生の都合で早く終わったの。圭ちゃんのこと待ってようと思ったんだけど、お兄ちゃん待たせちゃ悪いから……」 そこまで言って、唯ちゃんはちょっとうつむいて赤くなる。 「どうかしたの?」 「なんでもないよ。圭ちゃんが来たら話すから……。その、あの……」 唯ちゃんは下を向いてモジモジしている。小脇にはA4版くらいの白い封筒。 「唯ちゃん、その封筒――――」 折り目のない、きれいな封筒を見て、僕が尋ねようとした瞬間。 「なんでもないの!!」 急に封筒を後ろに隠そうとして、勢い余った唯ちゃんは、アイスティーの入っていたカップをなぎ倒してしまった。 「ごめんなさーい!」 制服のスカートがびしょびしょになっている。それなのに、気が動転した唯ちゃんは、全然ぬれていない僕のズボンを花柄のハンカチでふきふきしている。 「ああ、唯ちゃん。そこは拭かないでっ!!」 これ以上チャックの上を拭かれたら、僕は、僕は……。もう臨界点に達してしまう。 「唯ちゃん、ぬれてるのは唯ちゃんのスカートだよ」 くの字になりながら、僕は必死にそれだけ言った。 「あ、本当だ。お兄ちゃん、ごめんなさい」 「今、紙ナプキン持ってくるからね」 僕は腰の曲がった年寄りみたいな、超不自然な姿勢でダストボックスまで歩いていった。 箱を手前に引き出して、一気に十枚以上取り出す。 環境保護団体の中の人、ごめんなさい。でも悪いのは紙を取った僕ではなく、大量消費社会の方だと思う。文句はもっと偉い人に直接言ってくれ。 「あー、いたいた。お待たせー」 「圭!? それに、原島」 唯ちゃんと同じ高校に通っている妹の圭が、高校の時からの僕の親友である原島勇太郎を引き連れてやってきた。 「唯、お待たせ。みい兄、二つ返事でオッケーだったでしょ?」 ふるふる。 唯ちゃんは下を向いて、首を振る。 「なにぃー! みい兄、唯を泣かすなって言っただろ!」 「なんのことだよ! また濡れ衣かよ!!」 実の妹に胸ぐらを捕まれて、弁解の言葉しか出ないのは、我ながら情けない。 「違うの、まだなんにも言ってないだけだから……」 唯ちゃんが助け船を出してくれた。 「あ、そうなんだ」 首を絞めていた手が外されて、咳き込む僕。 「いったい何の話だよ?」 「これだよ、これ!」 さっき唯ちゃんが背後に隠した封筒を、圭がさっと取って僕の目の前につきだした。 「ジャジャジャン! 一泊二日海水浴&温泉旅館の旅」 圭は封筒の中から、旅行のパンフレットを取りだした。 「当然行くよね?」 圭が、ズイっと一歩踏み出す。 「あのね、もうすぐ夏休みでしょ? だからお兄ちゃんと旅行行きたいなって、あたしが言ったの」 唯ちゃんの言葉は、恥ずかしそうにフェイドアウトしていく。 「行きます! 圭さんが行くところなら、どこにでもついて行きます!!」 体育会系の原島は、体だけじゃなくて声もでかい。 「お兄ちゃんは?」 唯ちゃんのまっすぐな視線を、ひしひしと感じる。その瞳はちょっとウルウルしている。 「当然行きます!」 「よかったね、唯」 圭が唯ちゃんの肩をたたいて、隣に座る。 こういうわけで、僕たち四人は夏休みに海水浴に行くことになった。 それにしても、目の前で楽しそうにしている唯ちゃんが僕の彼女だなんて、未だに信じられない。 2 ことの起こりは、僕がまだ高校三年生だった時までさかのぼる。 「みい兄、明日文化祭に友達連れて行くから案内してよ」 妹の圭が、珍しく脅迫でも強要でもなく静かな調子で頼んできた。 今、僕の母校は学園祭の最中で、受験生であるところの僕は、家にこもって受験勉強をしていた。 まあ、一日くらい気晴らしに外に出てもいいかな。 「いいけど、そんなに面白いものじゃないぞ。うち男子校だし」 「いいから、いいから。とにかく、明日一日空けといてよね」 金曜日から始まった文化祭が一番盛り上がる、最終日の日曜日。最寄り駅の改札で、僕は唯ちゃんと初めて会った。 「こっちがうちの兄貴で名前は実。で、こっちが親友の桜木唯」 圭が紹介している間に、僕のスカウターは唯ちゃんを測定する。メガネの上で切りそろえられた黒い髪。太めの三つ編みは右肩から胸前に降りていて、つややかな光線を放っている。おまけに、制服であるタータンチェックのスカートは短すぎず長すぎず、絶妙な位置で白い股を隠している。 「あああああ――――」 僕の頭の中で、スカウターの針が振り切れて爆発した。 「あの、どうかしましたか?」 心配そうに僕を見上げる唯ちゃん。 「大丈夫だよ。たぶん感激してるだけだから」 圭はクールそう言って、先に歩き始めた。 男子校の学園祭というのは、本当に味気ない。各クラブの展示や屋台は他の学校と一緒だろうが、ステージでの出し物といえば、教員による手品やコント、それに女装コンテストくらいなものだ。 適当に屋台で買い食いした後は、飲み物を買って、校内をふらついた。 「次、これ行こうよ」 パンフレットを見ていた圭が、地学部主催のプラネタリウムを見つけてきた。うちの学校は小さいながらもプラネタリウムを持っているのだ。 「桜木さんもそれでいいの?」 「はい」 プラネタリウムの中は薄暗く、椅子はすべてあらかじめリクライニングしてある。 「唯。奥に入って」 「……うん」 「次はみい兄」 「え、僕?」 僕は圭に押し込まれるようにして、唯ちゃんの隣に座った。 ビーっとブザーが鳴って館内は暗くなり、ドーム型の天井には無数の星が映し出された。 うわっと、館内からため息が漏れる。それくらい美しい映像だった。 続いて、地学部部員のいたずら、『偽スターツアーズ』が始まる。星々がすごい勢いで動き、まるで自分たちの方が動いているような錯覚に陥る。 「!?」 隣に座っている唯ちゃんが、ギュッと僕の手をつかんできた。 その手は温かくて、そしてすべすべしていて……。 ああ、いかん! このままでは下半身に血液が集まってしまう。 僕は唯一知っている星座、オリオン座を探すことに意識を集中させて、危機を脱しようとした。 しかし、オリオン座の三つ星は全然見つからない。この方法はダメだ。 ううう。人肌っていいなあ……。 僕は作戦を変更して、しみじみモードに自分を入れることにした。 思えば、人との接触なんて圭にグーで殴られる時だけだもんなぁ。それも、最近は丸めた雑誌とかで済まされることが多くなってきてるし。 『しみじみ』というよりは『げんなり』に近いような気もするが、とにかく僕はそうして平常心を取り戻した。 「これで一回りしたことになるけど、この後どうする?」 「まだ、体育館行ってないじゃん」 体育館では運動部が練習試合をしているはずだった。しかし、所詮は高校生の弱小部のこと。見て面白いものでもないと思う。 「唯も行きたいでしょ?」 「うん。行ってみたい」 そういうわけで、僕らは立て直されたばかりの体育館に行った。プログラムではバレーボール部とバスケットボール部が練習試合をしているはずだ。 「よお、実!」 体育館への渡り廊下。同じクラスのミスターサマータイム原島勇太郎が、日焼けだか土埃だかわからない真っ黒な顔でやってきた。 「こんにちは」 二人が会釈する。 「こんなかわいい娘二人も連れて、何やってるんだよ」 原島が跳び蹴りをしてくる。 「金属スパイクで人を蹴るのはやめろ!」 「野球部の試合見に来てくれたんだろ? 俺、案内するよ」 「誰も、万年初戦敗退の野球なんざ見たくないわい。それにこれは妹の圭と、その友達だ」 「妹だと! おまえ、妹がいるならなぜ今まで黙っていた!!」 「原島に紹介するような兄妹はいない!」 「原島さんって、三年なのにまだ部活やってるの?」 それまで僕らのやりとりを傍観していた圭が、おもむろに口を開いた。 「こいつズーッとレギュラーになれなくて、未練たらたらでまだ続けてるんだ」 そのとき以来、僕ら四人はなんとなく友達になった。 ★ だんだんと朝晩は冷えるようになっていき、通学路の街路樹も黄色に染まってきた頃。僕は唯ちゃんからメールをもらった。 『今度の日曜日。あいていたら西が丘公園に一緒に行ってくれませんか?』 学園祭以来、何気ないメールのやりとりは続いていたが、こんな具体的な話は初めてだった。 これは、いわゆるひとつの『デート』ってやつか!! 僕は周囲に誰もいないことを確認して、一人喜びの舞を踊る。 「みい兄、ドタドタうるさいよ」 圭が部屋の戸口に立っていた。 僕はあわてて携帯を隠そうとして、床に落とした。 「な、なんだよ。いきなり入ってくるなんて」 「ははーん、なるほどね……」 にやにやと、意味深な笑顔をして圭は部屋を出て行った。 ばれたか!? いや、そんなはずはない。だがしかし。 数少ない脳細胞をフル稼働して、いろいろシミュレートしてみるが、なにも思い当たる節はない。大丈夫だ。 僕は当日着ていく服選びを開始した。 「遅くなってごめんなさい!」 待ち合わせ場所である公園の入り口で立っていると、唯ちゃんが息を切らせて走ってきた。 おおおおおっ。 ベージュのジャケットに同系色のロングスカート。それにバーバリーのマフラー。 僕は感激のあまり、ダメージ限界突破FFのヒットポイントなみにでかい数値をたたき出すスカウターを無視して、唯ちゃんを見つめた。 「あの、わたしどっかへんですか?」 「いえ、全然オッケーです」 幼さと知性が同居する唯ちゃんには、とても似合う服装だと思う。 「いい天気になってよかったですね」 唯ちゃんが空を見上げる。 昨日まで降っていた雨はやみ、今日は突き抜けるような秋晴れだ。涼しく、さわやかな風が吹いている。 「僕って晴れ男なんだ、一応。だからマラソン大会のたんびに、みんなにフクロにされるんだけどね」 「へー。そうなんですか。わたしもどっちかって言うと晴れ女、かな」 楽しそうに笑う唯ちゃん。 行ける。今日の僕は冴えている。っていうか、これでダメなら一生ダメだぞ実! 濡れて固まった落ち葉の上を、微妙な距離を保ちながら歩く二人。真ん中を人が通り抜けることもなく、かといって手と手が触れあうほど近くもない。 「あのー。受験勉強の邪魔じゃなかったですか?」 心配そうに僕を見上げる唯ちゃん。 「全然大丈夫。ちょうど模試もない日だし」 「よかったー」 『はじける笑顔』をまともに見つめていた僕は、思わずこの後の妄想に突入しそうになった。 いかんいかん、二人の関係はピュアなんだから。ヨコシマ妄想はこの際破棄しなければならない。 広い園内を、特に目的もなく歩いていると、噴水のあるところに出た。このまま公園の反対側に出れば、確かそば屋が建ち並んでいたはずだ。 昼飯はそばにするかな、と僕は思っていた。 「ここでお弁当、食べません?」 「えっ、もしかして桜木さん作ってきてくれたの!?」 はにかみながら、頷く唯ちゃん。手にはトートバックから取りだした、小さな弁当箱が二つ。 『夢幻泡影』 そんな言葉が頭を離れなかった、つらい頃もあった。でもこの際、夢でも幻でもいい。とにかく僕は幸せだ。 一つ一つがとても小さい唯ちゃんのサンドイッチを食べ終わり、公園の出口に向かって歩いていると、唯ちゃんがちょんちょん、と僕の服を引っ張った。 なんだか思い詰めたような顔をしている。そういえば、さっきから口数が急に減ったなと思う。 「あの、少しだけ時間をください」 僕は引っ張られるままに、通路からはずれて林の中に入っていった。 午後の木漏れ日が差す林の中。唯ちゃんはがちがちに緊張して、僕を見ている。 「あの、実さん。わたしのお兄ちゃんになってくださいっ!」 答えを聞くのが怖いのか、唯ちゃんはギュッと目をつぶって下を向いている。 「うん、うん。なる、なるよ僕。桜木さんのお兄ちゃんになるよ」 「唯って呼んでください」 「あ、そうだね。じゃあ唯ちゃんのお兄さんになるよ」 僕を見上げる唯ちゃんは、パーッと顔を赤くしている。 「それじゃあ、行きましょうか?」 唯ちゃんは僕の手を握って、歩き始めた。指と指が絡まって、とたんに僕のエモーションエンジンのゲージが跳ね上がる。 ダメだ。このままではズボンが不自然な形状になってしまう。 「ちょっとここで待っててね」 唯ちゃんに断り、体をくの字に曲げて僕は木陰にてゲージが落ち着くのを待つ。もっと手っ取り早い方法もあるが、仮にも十八の紳士、野外でそんなことはしない。 「お兄ちゃん、大丈夫?」 「あ、うん。もう大丈夫。ちょっとめまいが……」 事情を知らない唯ちゃんは、心配そうに僕を見ている。 「ほんとに、大丈夫だよ。それより外に出て喫茶店にでも行こうよ」 こうして、僕と唯ちゃんはつきあうことになった。 3 プライバシーチェーック!! 窓、鍵かけた。遮光カーテン、よし。部屋のドア、ロック(つっかえ棒)よし。 そしておもむろに僕はズボンを降ろす。 「はぁ……」 一日や二日でどうなるものでもないと思っていたが、やっぱりダメだった。 これは大統領にも知られてはならない極秘事項なのだが、僕はまだ毛が生えてないのだ。もうすぐ二十歳なのに。 唯ちゃんたちと海に行く約束をしたのが、今日。当然行く気は満々なのだが、この秘密を守りきれるかというと、少々心許ない。 あの原島のことだ、それも圭と旅行に行くとあって有頂天になっているに違いない。超絶技巧な舌さばきで、あることないこと言いふらすに違いない。 はっきりいって、僕はネタにされやすい体質なのだ。なんとかしてこの秘密を守れないものだろうか。 再びため息。 冷静になれ、客観的に物事を考えるんだ。 自分を叱咤激励し、眉間にしわを寄せて考える。その結果、次のような選択肢が思い浮かんだ。 その一、ひたすらタオルで隠す。 その二、マジックで黒く書く。 その三、髪の毛を移植する。 「移植……、してみようかな」 マジック作戦も良さそうだが、感触とシンナーのにおいで、別の意味でいいことになってしまいそうな気がするのでパスすることにした。 必要なものを考える。髪の毛を切るハサミと、ピンセット、それに瞬間接着剤があればいいだろう。 ハサミは引き出しに入っているし、実はモデラーな僕はピンセットも瞬間接着剤も持っている。 そんなこんなで、僕の大学生活最初の夏は始まった。 ★ 海水浴への出発当日。 僕は父の車(カローラ)を借りて、集合場所の駅前ロータリーに来た。 「飲み物買いに行ってくる」 と言い残して、圭はコンビニに入っていった。たぶん涼みに行っただけだと思う。雑誌コーナーで立ち読みをしながら、時々こっちを見ている。 僕はといえば、地球環境に優しい男なのでアイドリングはストップし、窓は全開にしてうちわで扇いでいる。 せめて冷たいおしぼりでもあればなぁ。 シートをリクライニングさせて、目を閉じる。蝉の鳴き声がうるさい。 「おーい、みい兄。唯たち来たぞ」 運転席の窓から、圭の顔がのぞいていた。 「おー。やっと来たか」 「遅くなってごめんなさい」 まだ集合時刻には十分以上あるのに、唯ちゃんはけなげにもそう言った。 おおおおおおおお。 唯ちゃんたちの荷物をトランクに積み込むために車から降りた僕は、唯ちゃんが放つ神々しい光に照らされた。 光の具合によっては薄く紫にも見える、純白のブラウス。それは幼い顔とは裏腹に見事に成長した胸のラインをきれいに表している。しかも、下は裾が大きく広がったロングスカート。手には籐製のトランクを持っている。 はまりすぎ! 思いっきりツボだよ唯ちゃん!! 暴走しかけた僕は、思わずくの字になる。 なんのことかわからないで、ぽかんとしている唯ちゃん。その唯ちゃんに向かって、圭がウインクをしている。 圭と唯ちゃんだけの秘密コード。『つかみはオッケー』のウインクだ。 「それじゃあ、出発しようか。運転よろしく!」 圭が僕の肩をたたいて、後部座席に乗った。 「ちょーっと待った! 俺を忘れるなんてひどいじゃないか」 スポーツバックを肩から提げた原島が、額の汗をぬぐいながら現れた。 「あー、すっかり忘れてたわ」 「圭ちゃん、それは言い過ぎだよ」 原島は圭に、 「暑苦しいから近くに寄るな」 と言われながらも後部座席に乗り込んだ。 当然助手席は唯ちゃん。 小さなポーチを膝の上にのせて、ちょこんとシートに座っている。 「一応シートベルト締めてくれる?」 「は、はい」 唯ちゃんはあわててベルトを締めた。 「よーし。それじゃあ、みい兄作成のベストテープの鑑賞会にしようかー!」 圭が後部座席から手を伸ばして、グローボックスの中にあるテープを取り出す。 「や、やめろー!」 僕は運転しながらも、圭の手からテープを取ろうとした。 「お兄ちゃん、前見て! 危ない!!」 こんな時に限って、信号はずっと青。 そして、原島の援護を受けた圭はテープをデッキに押し込み、車内には僕の作ったテープが流れたのだった。 「お兄ちゃん、こういう曲好きなの?」 「昔好きだった曲を集めただけだよ」 「うっそー。みい兄、今でも毎晩部屋で聞いてるよ」 個人的な趣味を公開されてうろたえていた僕に、圭がとどめを刺した。 やってきたのは伊豆の海岸線を走る国道。道ばたでは『P』と書かれたうちわを振って、真っ黒に日焼けした海の家のおじさんたちが客引きをしてる。 すばらしき横並び意識。駐車代はどこも、一日千円らしい。 「どこがいい?」 一応、圭にお伺いを立ててみる。 「みい兄の好きなとこでいいよ」 こういうとき、人はもっともセンスを問われる。横文字を使ったヤンキーチックな海の家は当然避けるし、かといって二十年以上前からやってます、というような設備の古いのも回避しなければ、あとでなにを言われるかわからない。 僕は暑さのあまり、いい具合に目が逝っちゃってるおじさんの店に決めて、車を止めた。 「いらっしゃいませ。駐車場は向かい側になります」 「じゃあ、唯ちゃんたちはここで降りて。僕は車を止めてくるから」 「おっけー。じゃあ後よろしく。原島は荷物持ちね」 圭が真っ先に降りていった。 「お兄ちゃんも早く来てね」 唯ちゃんは、なんだか恥ずかしそうに車から降りていった。そうなんだ。もう水着姿まであとわずか! とても重要な場面にさしかかっているのだ。 僕はおじさんの誘導に従って車を止め、砂浜に降りていった。 「おーい。こっちこっち!」 原島がシャベルで砂浜を掘って、ビーチパラソルを立てて待っていた。 「唯ちゃんたちは?」 「まだ、海の家で着替えてる」 「そっか」 僕はレジャーシートを敷いて、短パンとTシャツを脱いだ。あらかじめ、下には海パンをはいてきたのだ。 原島も同じく海パン一丁になって、ボディービルダーよろしくいろいろなポーズをとっている。 「圭ちゃんの水着姿、楽しみだなー。俺の作戦、聞きたいか?」 原島の筋肉はなかなかのものだが、典型的な土方焼けなので、腕と顔だけしか日に焼けていないのが玉に瑕だ。 「別に」 聞かなくても、だいたい予想は付く。 「まあ、作戦なんて立てなくても、この肉体を見れば圭ちゃんも俺を見直すこと間違いなしだけどな」 「お待たせー」 ピキ―――――ン! 圭の声に超反応して、原島と二人、くるっと振り向く。 黒いワンピースの水着を着た圭と、白いパーカを羽織った唯ちゃんが立っていた。 「さ、遊びに行くよ!」 圭はそう言って唯ちゃんのパーカをはぎ取った。 「なに―――――――――っ!!」 唯ちゃんの水着は、花柄のビキニだった。胸の部分は真ん中でねじれている帯状のやつだ。下半身は腰布が付いているものの、それは右半分しかかくしてなくて、股がしっかり見えている。 しかし、ポイントはそんなありふれたところではない。ロングの髪をうなじのところでまとめて、バレッタで止めている。 白いうなじがああああ―――――。 「お兄ちゃん、あんまりじっくり見ないで……」 恥ずかしそうに膝をすりあわせてモジモジする唯ちゃん。一方、すでに真ん中の足に血液が大集合して、くの字になる僕。 「みい兄! お約束してないで、手でも繋いで遊んでこい!」 ビーチベットを膨らませていた圭が、僕の背中をけっ飛ばした。 「お兄ちゃん、行こ」 唯ちゃんはスイカ模様のビーチボールを抱えて、僕の手を引いた。 「それじゃあ、俺たちも」 原島は鼻息も荒く、筋肉馬鹿ポーズをとる。 「あんたはその辺でナンパでもしてな」 圭は手をひらひらさせて、『あっち行け』をしながらビーチベットに寝ころんだ。 圭の瞳には、サングラス越しに波間で遊ぶ僕と唯ちゃんが映っていた。 「お兄ちゃんメロメロコンボは順調、だね……」 圭は不敵な笑みを浮かべた。 4 旅館『本陣』のロビー。僕たちは圭がチェックインの手続きをしている間、ソファーに座ってボーッとしていた。 正確に言うと、ボーッとしているように見えるだけで、僕は日焼けの痛みと闘っていた。 「お兄ちゃん、腕真っ赤っかだね」 一日一緒に遊んでいたのに、いつもと変わらず透き通るような白い肌の唯ちゃんが、自分の腕を僕の手の横に並べて見比べている。 「日焼け止め塗るの忘れてたんだよ」 「日頃外に出ないからだぞ。もやしっ子」 原島は今朝会ったときとまるで変わっていない。大学では野球サークルに入っているから、もうとっくに日焼け済みなのだ。 「おまたせー」 圭が部屋のキーを持って来た。 「それじゃあ、行くか」 疲れた体にむち打って、荷物を持ち上げて立ち上がる。 階段を上って、半二階のような廊下を進んだところで、圭が振り向いた。 「部屋は、ここから三つね。 左があたしの部屋。で、右端が原島。真ん中は唯とみい兄ね」 聞いてないよぉ――――――――っ!! 突き出された部屋のキーが目の前で揺れている。 「あの、その……」 言葉に詰まっている僕の腕を、唯ちゃんがぎゅっと抱いた。見ると、うつむいて耳まで赤くなっている。 「唯に恥かかせるなよ、みい兄。じゃーねー」 追いすがる原島を足蹴にして、圭は自分の部屋へさっさと入っていった。 手の中には一つのキー。 隣には唯ちゃん。 そして、すっかり忘れ去られた原島。 ハッ、これが伝説の『据え膳』というやつなのか!? 小石川実が大人になるための、チャンスの神様がすぐそこにいるのか!? 『前髪がっちりつかんどけ!』 頭の中の、アダルトモードの実がそうささやけば、 『唯ちゃんとはまだつきあって半年でしょ。唯ちゃんの気持ちも大切にしてあげなきゃダメだよ』 と、天使のように純粋潔白な実が反論する。 「とりあえず、部屋に入ろうか? 廊下に突っ立ってるのも変だし」 「うん」 部屋は和室だった。六畳ほどの部屋と洗面所とトイレ、それに窓側に廊下があった。 建物自体は古そうだが、内装は改修したようできれいだった。 「お兄ちゃん、お茶飲む?」 「あ、ああ。うん。おねがい」 テーブルの上に置いてあった茶菓子をつまみながら、唯ちゃんの煎れてくれたお茶を飲む。 そうだ、こうして和みモードでいればいいんだ。自然体でいこう。 「失礼します」 そうひらめいたところで、仲居さんがふすまを開けて入ってきた。 「ようこそいらっしゃいました。お食事は六時半に食堂の方までお越し下さい。それからご予約頂いた家族風呂の方は、五時半から六時まででございます。場所は本館屋上にございます。それではごゆっくりお過ごし下さい。失礼します」 着物をびしっと決めたおばさんは、さささっと部屋から出て行った。 「か、家族風呂!?」 仲居さんの言葉がリフレインする。 「予約って……。そうか、圭が勝手に予約したんだね」 同意を求めるように、僕は唯ちゃんを振り返る。 「……お兄ちゃん、一緒に入ろ。も、もちろん水着でだけど」 唯ちゃんは正座をして、小さな声でそういった。 「そ、そうだよね。水着ならふつうだよな。うんうん。 あ、ほらここの家族風呂って露天風呂なんだって」 机の上にあった設備案内には、海を見渡すことが出来る屋上露天風呂の写真が載っていた。 冷静になれ、実。風呂だと思うから動揺するんだ。温水プールだと思えばいい。 空は真っ赤に染まっていた。そしてうるさいくらいの蝉の声。普段だったら、だるさの象徴のような情景も、露天風呂に足を突っ込みながら海風に当たっていると、とても趣がある。 「わたし後から行くから、先に着替えて入っててね」 部屋を出るときそう言った唯ちゃんは、今脱衣室で水着に着替えている。磨りガラスの向こうでは――――。 振り向けば、磨りガラスには人影が映っているようにも見える。 ダメだダメだ! 煩悩に思考が乗っ取られそうになるのを必死に押さえて、大海原を見る。しかし、頭に思い浮かぶ映像は着替えをする唯ちゃんばかりだ。 海、海、海。 無理矢理一人連想ゲームを始める。 鳥羽一郎、兄弟船。えーとどんな歌い出しだったっけ? うーみよー、俺のうーみよー。ああ、それは加山雄三だ。まあ、どっちでもいいや。 「お兄ちゃん、お待たせ」 水着を着ているはずなのに、タオルで体を隠した唯ちゃんが立っていた。 白い一枚のタオル。なんという恐るべき兵器だ! まるで本当にタオルしか身につけていないかのように見える。 そのとき、僕の脳みそは緊急信号を出してきた。 『下半身に血液が、「お風呂だよ全員集合」してます!』 僕はあわてて湯船に入る。 「お兄ちゃん、ちゃんと体洗ってから入った?」 「いや、まだだけど。ちょっとのっぴきならない事情があって……」 僕は潮のにおいをかぎながら、必死に加山雄三のディナーショーを思い浮かべた(行ったことはないが)。 「背中、流してあげる」 唯ちゃんは檜の椅子に座って、洗い場で待っている。僕は海パンをはいているのに、手ぬぐいを使って肝心な部分を隠しながら、洗い場に行った。 「大きい背中……」 日に焼けてヒリヒリする僕の背中を、唯ちゃんが優しく洗っている。ソフトタッチなあかすりの感触に混じって、唯ちゃんの細い指が背中をなでる。その微妙な力加減で、僕の下半身血圧ゲージはレッドゾーンに一気に飛び込む。 「唯ちゃん!」 『男ならガバッと押し倒してしまえ!』 デビル実が柄の悪いジャイアンみたいな声でそそのかし、 『今が踏ん張りどころよ!』 と、エンジェル実が両手を胸の前で固く結んで祈っている。 「なに、お兄ちゃん?」 「日焼けで痛いから、ぬるめのお湯で流してくれる?」 「うん。そうする」 『煩悩に耐えてよく頑張った! 感動した!!』 無限増殖したエンジェル実が、僕を幾重にも取り囲んで惜しみない拍手をしていた。 風呂から上がると、ちょうどマッサージチェアーに圭が座っていた。 「しっかり楽しめた?」 圭が意地悪な笑みを浮かべる。 「圭ちゃん!」 「冗談よ、じょーだん。みい兄にそんな度胸ないもんね。それより、これ気持ちいいよ」 圭はマッサージチェアーが気に入ったようだ。 僕らも隣に座って、マッサージをしてもらいながら、世間話で時間をつぶした。 ★ 懐石料理の夕食から戻ると、部屋には布団が敷いてあった。部屋のど真ん中に一組。枕が二つ。 戸口で固まる僕と唯ちゃん。 「どどどどどどーしよう?」 フロントに電話して、もう一組布団を持ってきてもらうべきか!? しかし、状況はおいしすぎる。幸い唯ちゃんもイヤな顔はしていない。……と思う。 しかし、大事なことがある。それはさっき風呂にはいるときに確認したのだが、移植した毛がすべて剥がれていたのだ。つまり、今の僕はつるつる小学生状態なのだ。 「お兄ちゃん、お話ししながら寝ようよ」 唯ちゃんの声には、いつもと同じ優しさがこめられていた。 「そ、そうだね」 とにかく明るいところでパンツさえ脱がなければ機密は守れるしな。 僕は布団の端に座って、テレビを点けた。 ちょうど報道番組が固まっている時間帯だったのか、どのチャンネルも政治家の不祥事事件の続報ばかりだった。 「このニュース、いい加減飽きたね」 「でも、他に大事件がないってことだから。平和なのはいいことだと、わたしは思うな」 浴衣をぴしっと着こなして、唯ちゃんは正座していた。 「それもそうだね」 そのうちバラエティー番組が始まって、なんとなく和んだ雰囲気で見ていた。そして再びニュース番組の時間帯。 「そろそろ寝ようか?」 分かり切ったニュースを改めて見るのは、逆に不自然だと思われる。ここは自然に就寝に持って行くのが正解なはずだ。 「……うん」 唯ちゃんはそっと手を握ってきた。僕もその手を無言で握りかえして、布団に入った。 「お兄ちゃん、大学楽しい?」 常夜灯に照らされた唯ちゃんは、天井を見つめていた。 「うーん、まあまあかなあ。原島みたいにサークルとかやってれば楽しいのかもしれないけど、今のところなんにもしてないし」 「あ、あのね。大学だとやっぱり合コンとかあるの?」 握っている手にちょっとだけ力が入った。 「新歓の時期はたくさんあったけど、ちょうどそのとき風邪引いてて一回も出なかったから。だから一回も行ってないよ」 「わたしがんばって勉強して、お兄ちゃんと同じ大学に入るから。だから、待っててね」 唯ちゃんは、僕が離れていってしまうのを恐れているのだ。そのことが痛いほどよくわかった。 「ゼミが始まって新しい友達が出来るかもしれないし、バイトもするかもしれない。でも、僕が好きなのは唯ちゃんだけだから。だからそばにいて欲しいんだ」 がちがちに緊張した声だった。『お兄ちゃんと恋人は別』とか言われたらどうしようと、この期に及んでまだ僕は不安を感じていた。 「ねえ、こっちを向いてもう一度言って」 「だから、その……。僕は、小石川実は桜木唯ちゃんが好きです」 僕は唯ちゃんの肩に手を回した。唯ちゃんは目を閉じている。 「……うれしい」 唇と唇がそっとふれあった。それから僕たちはぴったりと体をつけて眠った。 夢とうつつの境目で感じる、唯ちゃんの体温、そして鼓動。僕は生まれる前に戻ったような気がした。 5 翌朝。 チェックアウトぎりぎりまで朝寝して、それから帰路についた。 午前中(といっても昼に近いが)のうちに帰る車は少なく、道は順調に流れている。そして、後部座席では圭と原島が大きな口を開けて爆睡していた。 助手席の唯ちゃんも眠たそうだった。 「昼ご飯、どうしようかな」 聞こえてなければそれでいいやと思いながら、独り言のようにつぶやいた。 「ハッ、はい。昼ご飯ですね。えーっと。わたしは洋食が食べたいかなあ」 唯ちゃんを起こしてしまったようだ。 「そうだよね、旅館は和食だったもんね」 十五秒後。 「えっ、えっと。そうですね、朝は焼き魚だったから」 「あの、眠たかったら寝てていいよ。僕、運転だけは得意だから」 二十秒後。 「そんな、お兄ちゃんだけ運転して、わたしが寝てるなんて悪いです」 「そう? でも、かなり辛そうなんだけど……」 三十秒後。 「あっ、あの。ごめんなさい。なんの話でしたっけ?」 「たいした話じゃないよ。寝てていいよ」 「大丈夫です」 唯ちゃんの意志はなかなか固そうだ。 「それじゃあ、次のSAで休憩しようか? 僕もコーヒーが飲みたくなってきたよ」 「はい。そうしましょう」 後ろで眠りこけている二人を車内に残して、僕と唯ちゃんはSAのベンチに座った。 「飲み物買ってくるよ。なにがいい?」 「アイスティーをお願いします」 僕は自販機で、午後の紅茶とボスプレッソを買って戻った。 「楽しかったなぁ」 「ああ、そうだね」 見上げると、青空には見事な入道雲が飛行していた。背後の山からはアブラゼミの鳴き声が幾重にも響いてくる。 「また、遊びに来ましょうね」 唯ちゃんが僕の腕を抱いた。 一緒に――――――――――。 了 |