松浦亭の書棚

ラスト・ウィーク(後編)


   5

白い、ごくふつうのセダンが突っ込んでいるコンビニの店内。雑誌棚はなぎ倒されて、隣の化粧品の棚も少し傾いている。そして、店内にはハジメたち四人と、殺されてしまったハジメの家族三人の遺体。
「なあ、これからどうする?」
花田たちにも手伝ってもらって家族三人の遺体を二階の和室に安置して、半壊したコンビニで昼飯を食べている時に花田が沈黙を破った。
「花田は家に帰るんだろ?」
おにぎりを食べていたハジメは、梅干しの種を捨てて、逆に聞き返した。
「ああ、そのつもりだよ。谷崎たちもそうするだろ?」
「そう、……ねぇ」
美登里も歯切れが悪かった。家族をいっぺんに失ってしまったハジメに、気を遣っていたのだ。
「今問題なのは、家に帰るとか、帰らないとか、そんなんじゃない気がする」
珍しく、咲が強い調子で発言した。
「あと一週間しか生きられないんだよ。ううん。もう半日は過ぎちゃったから、正確には六日と半分。その間にやらなきゃいけないことがあると思うの」
三人の視線が咲に集まる。咲はなにか、大きな決心をしたようだった。
「わたしね、将来は絵本作家になりたいと思ってたの。そのためにいろんな国の絵本を読んだり、小説を読んだりしてきた。あきらめないで努力を続けていれば、いつか叶う夢だと思ってた。でも、タイムリミットはあと百五十六時間なんだよ。だからその間に、わたしは自分の絵本を書き上げる」
「それなら、俺は――――」
ハジメは古い約束を思い出した。
「俺は伊豆に行く」
「伊豆? まさかこの期に及んで温泉にでも行くつもり?」
美登里があきれたような声でそう言った。
ハジメは昔、南伊豆町に住んでいたことを話した。その時の記憶がなぜかさっき急に蘇ったことも。
あの岬で、あーちゃんともう一度会う約束を果たさなければならない。
「そんな昔の……」
そんな昔のことなど、相手だって覚えていない。美登里はそう言おうとしてやめた。今のハジメには、他にすがるものなど残されていないのだ。
「でも、どうやって行くつもり? 電車もバスも、もう走ってないんだよ」
「歩いて行くさ。割と新しいジョギングシューズもあるし。あとはここにある飲み物と食べ物を持てるだけ持って行く」
「わかった。でも、その前に二人を家まで送ろう。この状況で、女の一人歩きは危険すぎる」
花田の提案はもっともだった。野村のようにやけっぱちになっている人間はいくらでもいるだろう。
ハジメは父の形見となった金属バットをケースに入れて、忍者のように、たすきに背負った。決して強い武器ではないが、柔道部の花田も一緒なのだし、それに包丁などは使いこなす自信が持てなかった。
それから、登山用のリュックサックに保存の利きそうな食料とお茶系統のペットボトルを詰め込んだ。リュックサックは家族四人分あったから、花田たちにも協力してもらって、店内に残っていたハサミ、バンドエイド、ウエットティッシュ、それに下着類などを持ち出した。

店を出て、商店街を歩く。全部の店がシャッターを下ろしている。スーパーマーケットの前には数人の柄の悪い男が集まっていて、シャッターを壊そうとツルハシを振り回していた。
「ねえちょっと、道変えようよ」
美登里がハジメに耳打ちする。
確かに今のハジメたちは、連中にとってはかもネギだろう。しかし幸い、連中はツルハシで出来た穴を広げることに熱中していて、ハジメたちには気づかなかったようだった。
「走ったりすると不自然だから、このまま静かに通り過ぎよう」
学校帰りで、全員が制服を着ていたことも無関係ではなかっただろう。とにかく、無事に商店街を抜けて、駅前に出た。
駅前ロータリーには、ちょっとした人だかりが出来ていた。
人生の最後なのだ。咲が自分の絵本を完成させたいと思うように、大道芸も思う存分やっておきたいと思う人がいてもおかしくない。しかし、様子はちょっと変だ。
花田は長身を生かして後ろの方から人だかりの中心を見た。
「なにか見える?」
「クソッたれ!!」
花田は突っ立っている男をかき分けて、中へと入っていった。ハジメも花田に続く。
人だかりの中心では、学生風の男が小学生をレイプしていた。花田が男の奥襟を取って少女から引き離し、見事な背負い投げで男をコンクリートの地面に叩きつけた。
ハジメは男のズボンからベルトを抜き取り、後ろ手に縛った。その間、美登里と咲は少女を抱いて、衣服の乱れを直してやった。
ハジメが少女の方を振り向いた時、少女は泣いていなかった。おびえたような表情すら見せなかった。安堵したようなサインを伝えることもなかったし、感謝しているとも思えなかった。
完全なる無表情。
少女は自分の心を閉ざすことで、自我の崩壊から自分を守ったのだろう。
「さあ、どいたどいた!」
助けることもなく、助けを呼ぶこともせず、ただ傍観していた連中を蹴散らして、花田は駅交番へと向かった。警察が機能しているかどうかは知らないが、少なくとも駐在のお巡りくらいはいるのではないかと思っていた。しかし現実は、想像以上に荒れていた。
「全部持ってこい! ぐずぐずするな!!」
自販機にジュースを補充するトラックから、若い男が缶ジュースの箱を交番に運び入れている。お巡りはそのすぐ脇で拳銃を突きつけて、怒鳴っていた。
「なに見てるんだ! 貴様も撃ち殺すぞ!」
お巡りを睨み付けていた花田に、銃口を向ける。
「やってみろよ」
花田はゆっくりと一歩一歩、地面の感触を確かめるように歩いた。お巡りの拳銃を持つ手が震えている。
ハジメは、花田が後ろに回した左手で作ったサインを見逃さなかった。大きく遠回りをして、お巡りの背後に忍び寄る。チャックを開けて、金属バットを抜く。
「離せ! 離せよ!」
花田に襟を捕まれているレイプ学生が、口から泡を飛ばして叫んでいる。しかし、花田は動じない。着実にお巡りに歩み寄っていく。
ハジメがお巡りを間合いに捕らえた瞬間。花田は両腕で学生を振り回し、お巡りめがけて投げつけた。
―パン。
乾いた銃声が響くのと同時に、ハジメのバットがお巡りの側頭部を打った。弾丸はそれて、地面で一度跳ねて空へと消えていった。
あとには、脳しんとうを起こして倒れているお巡りと、自分が漏らした小便の上にへたりこんでいるレイプ学生が残った。
ハジメはお巡りの腰から手錠を取って、お巡りの右手と学生の右足をつないだ。それから拳銃につながっているロープを切って、拳銃を自分のポケットにしまった。
「あの、助けてくれてありがとう」
拳銃で脅されて、缶ジュースの入ったケースを交番に運び込まされていた青年が近づいてきた。
「いや、たまたま助けられただけだよ。俺たちもそんなに余裕があるわけじゃないんだ」
「俺、こんな時なのに他にやることが思いつかなくて。会社に行ってみたけど、ほとんど人もいないし、それでジュースの補充に来たんだ」
青年はそう言って、ハジメたちにお茶のペットボトルを勧めてくれた。
「ありがとうございます」
美登里はのどが渇いていたらしく、半分くらい一気に飲んだ。
「君たちは学校の帰り?」
「ええ、まあ」
登校下校、そんな言葉がこれほど似合わない状況というのも珍しいなとハジメは思った。十キロと離れていない家に帰るのに、命がけなのだ。
「あの、お兄さんはこれからどうするんですか?」
咲が言いにくそうに質問した。咲は、ジュースの補充をするトラックに乗せてもらえないか、それを考えているようだった。
「うーん。そうだね。まあいつも通りにいくとは思わないけど、自販機を回ってジュースの補充をするよ」
与えられた役目を正直に遂行する。それはつまらないことなどでは決してない。とても重要で尊いことだ。
「それじゃあ、俺らはこれで」
花田が立ち上がった。
「君たちも気をつけてね。それから、ペットボトルは分別して捨ててね」
学校に自衛隊が突入してきてから壊れてしまった日常。ハジメたちはようやく『まとも』な人に出会えたと思った。そして、「ペットボトルは分別して捨ててね」が最後の言葉になった。
「次に『まとも』なやつに会えるのは、いつだろうな」
「さあなあ。もうみんな狂っちまったのかもな」
あるいは、余命一週間弱でゴミの分別を問題にしている、あの青年の方が狂っているのかも知れないと、ハジメは思った。

咲の家までは、駅にして二駅。ずっと線路に沿って歩いたから、一時間かからずに到着した。途中、自販機を壊して中の商品を盗もうとしている不良少年をボコボコにしたが、それ以外では特に大きな障害もなく、歩き通すことが出来た。
「ママ!」
咲は玄関先に出てきた母親に抱きついた。時間にすればわずかだったが、電話をはじめ、連絡手段は壊滅し、街中が大混乱に陥っている。そんな状況下で無事に再会できたことはうれしいに違いない。
「美登里さん、お久しぶりね。あと、そちらは?」
「新井一です」
「花田徹です」
咲の母親につられて、軽く会釈をする。
「……」
さっき助けた少女は無言だった。
「みんな、ボディーガードをしてくれたの」
咲が涙を指先ではじいて、ちょっと鼻声で説明した。
「みなさん、なにもないですがお茶でも飲んでいってください」
咲の母親はそう言って家に上がるように勧めてくれたが、ハジメは丁重に断った。治安と秩序の崩壊は、時間を追うごとにひどくなっている。これ以上状況が悪化しないうちに、美登里を家まで送ろうと思った。
手元の武器は四発弾丸が残っている拳銃と、背中の金属バット。よほどの敵でない限り負けるとは思わないが、背中のリュックサックには、今となっては貴金属より高価な水や食料が入っている。
「それじゃあな。加藤だけの絵本、完成させろよ」
「うん」
美登里と咲は抱き合って別れを惜しみ、涙声でさよならを言った。
それから咲の母親の提案で、心を閉ざしてしまった少女は咲の家で預かることになった。

直接美登里の家を目指す方が早いのはわかっていたが、道に不案内だったから、いったん駅まで引き返して、線路沿いを歩くことにした。
駅前にはもう電車を待つ人もいなかった。線路を歩いても、誰も止めないだろう。駅員すらいないのだから。
「花田、おまえとはここで別れよう」
花田の家は、ここから京王電鉄に乗り換えていったところにある。美登里の家とは反対方向だ。
「おまえらだけで、大丈夫なのか?」
「いざとなったら拳銃もあるし、どうにでもなるさ」
「そうか……」
花田には柔道部主将のプライドがある。こんなところで別れを惜しんで、ぐずぐずするようなまねは出来なかった。それでも、もう二度と会えないことがわかっている今、すぐに手を振って立ち去ることも出来なかった。
「伊豆で幼なじみに会えるといいな」
「ああ」
「谷崎のボディーガード、しっかり頼むぜ」
「わかってる」
「じゃあな、相棒」
花田が拳を突き出す。ハジメもそれに応えて拳を合わせる。そしてそれぞれの方へと歩き出した。二度と振り返らずに。

美登里と二人、線路の上を歩く。遮るものがないここでは、涼しく乾いた風が吹き続けている。頭上を鳶が飛んでいた。普段なら街の騒音で聞こえない鳴き声も、今日ばかりは綺麗に響いていた。
「ねえ、どうしても伊豆に行くの?」
美登里らしくない、ちょっと遠慮したような言い方だった。
「そうだな。もう俺にはなにも残ってないから」
ハジメを残して、一足先に全員であの世に逝ってしまった家族。家に帰れば両親が待っている美登里はなにも言えない。
「じゃあさ、わたしがバイクで送ってあげるよ」
「バイク?」
「うん。実は免許持ってるの」
意外だった。確かに性格は男勝りなところがあるが、わざわざ校則で禁止されているバイクに乗っているとは思わなかった。
「うちの姉貴がね、バイクが好きでずっと乗ってて。結婚する時に家に置いてっちゃったのがあるのよ」
「谷崎はそれでいいのか? ガソリンが手に入らなければ、帰ってこられないぞ。そうでなくても、残された時間の三分の一は使ってしまうんだぞ」
「いいよ、別に。親には悪いけど、わたしの人生だから。悔いのないようにやらせて頂きます」
悔いのないようにやらせて頂きます、か。
ハジメは、まっすぐに見つめる美登里の顔を見ることが出来なかった。自分がとんでもなくわがままで、悪いやつのように思える。
「ねえ、その子とは文通とかしてるの?」
「いや、全然。引っ越しのごたごたで住所録もなくしちゃたしな」
なぜ、あれだけ仲がよかったのに、その後連絡を取っていないのだろう?
当たり前の疑問が、ふと頭をよぎった。

   6

十年前のあの日。ずっと続くと思っていた毎日が、大人の都合であっさりと終わりを告げた日。ハジメはあーちゃんを裏切った。
「ハジメちゃん、いつ東京に行くの?」
「わからない」
「電車に一人で乗れるようになったら、絶対遊ぼうね」
「うん。絶対」
もう会えないと言った時のような悲壮感はなかった。ちょっと旅行に行ってくるとか、そんな軽い感じだった。そして、東京に発つ前に、一度お別れをするために会おうと決めていた。
「ハジメ、あした東京に行きますからね。今日中に残りの荷物を片づけなさい」
「あした!?」
前に聞いた話では、東京行きはもっとあとのはずだった。日付もいい加減にしか覚えていないほどあとの話。それが、急に明日だという。
あーちゃんは今、はしかにかかっていて会えない。
「明日じゃ困るよ。あーちゃんと約束があるんだ」
ハジメも子供なりに抵抗した。それが無駄であることはよくわかっていたが。
「あとで電話して、謝っておけばいいでしょ?」

結局、ハジメはそのまま南伊豆町を離れた。
電話をすることも、他の級友に手紙を託すこともしなかった。そんな気の利いたことを思いつくには、まだ幼すぎた。そして、東京での生活は南伊豆とは比べものにならないほど忙しいものだった。
最後に会おうという約束を破ってしまった後ろめたさ。それに不安だらけの東京での生活という大問題のまえにハジメは縮こまってしまい、なにも有効な手段を執らずにいたずらに時間を消費してしまった。
きっともう、あーちゃんのはしかは治って、いつも通りの元気なあーちゃんに戻っただろう。そして、約束したとおり、秘密基地でハジメを待っていたに違いない。
夕暮れ時。
昼間あれだけうるさかったアブラゼミの鳴き声は消えて、あたりには寂しげな蜩の声が響いても、あーちゃんはハジメを待っていたかもしれない。きっとハジメが来ると信じて。同じ頃、東京のハジメが学習塾で苦しんでいるとはつゆ知らず。

そんないきさつがあったから、ハジメはあーちゃんに顔向け出来ないと思っていた。それに馴染めない東京での暮らしがハジメのストレスとなっていて、他のことを想う心の余裕を失っていた。
その後、転校生として二学期を迎え、新しいクラスになじむに従ってハジメの日常は東京のそれになった。
学校に行き、学習塾に行き、毎週のように週末を模試で潰し、習い事でとどめを刺される生活だ。
毎日が輝いていた頃。伸び伸びと精一杯活動していた時間。その象徴があーちゃんとの友情だ。だからこそ、ハジメは南伊豆町を目指すのだ。

   7

道すがら、今まで自分でも自覚していなかったようなことを、思い出しつつ美登里に聞かせた。あのころのぬくもりを思い出すために自分は南伊豆町に行くのだと。
花田と別れてから、二人はさらに二駅分歩いた。美登里は駅の駐輪場に自分の自転車を止めておいたから、そこからはハジメも自転車をこいで美登里の家へ向かった。行き交うバスもタクシーもいない車道を悠々と走る。時々暴走している車があるから、交差点では注意しなければならないが、基本的には信号は意味をなしていなかった。カーブを曲がりきれずに、ガードレールに刺さっている車もあったが、誰も救急車など呼ばないし、まず呼ぼうとしても電話が通じていなかった。
「谷崎んちって、結構いいところにあるんだな」
道路は幅も広く、よく整備されているし、周りには緑豊かな公園があった。電車に乗ればわずか二十分ほどの距離でも、商店街の中にあるハジメの家とは大違いだった。
「新井、うち来るの初めてだよね」
「そうだな」
美登里とハジメは高校入学時から、席が近かったこともあって友達になった。どちらか一方が積極的に声をかけたということはなかったが、気がつけばグーで殴り合うような仲になっていた。
「着いたよ。ここがわたしんち」
立派な家だった。建て売りなどとは違って、土地、家族構成などを熟考して設計された家だとすぐに分かった。
「自転車はもういらないかもしれないけど、一応車庫に入れておいて」
美登里がリモコンで、電動シャッターを開けた。中にはぴかぴかのBMWとヤマハのクラシックなデザインのバイクがあった。
「金持ちだな」
「そんなことないよ。ただのサラリーマンだよ。銀行員だから少し給料高いかもしれないけど」
美登里に続いて、玄関へと案内される。美登里がインターフォンで帰宅を告げると、電動で門扉のロックが解除された。
「ただいま。こいつがいつも話しているクラスメイトの新井」
「まあ、こんにちは。いつも美登里がお世話になっています」
玄関先には、美登里の母親が出てきていた。
「どうも。突然おじゃましてすいません」
美登里はの家が強盗に入られて、家族が全員殺されてしまったことなどを説明した。そんなことを話していると、美登里の父親も出てきて、ハジメを家に上げてくれた。
「家族を亡くしてしまったということは、新井君は今天涯孤独なんだね。まあ、遅かれ早かれ、あと六日以内にみんな死ぬわけだが」
居間で紅茶をごちそうになりながら、ハジメは美登里の父と話をしていた。
「まあ、そういうことになります」
「南伊豆町におじいさんたちがいるんじゃないの?」
美登里が口を挟んだ。
「いや、引っ越してすぐじいちゃんたちも東京に出てきたんだ。今はもう二人とも死んじゃったけど」
外の狂乱がまるで嘘のように美登里の家族は落ち着いているように見えた。やはりエリートだと、こうも違うものなのだろうか。それとも、どんな状況でも自分だけは助かるという思いこみでもあるのだろうか。
「さっき聞いた話では南伊豆町に行くつもりだとか」
「はい。ちょっと約束がありまして。もう破っちゃったんですけどね、筋は通さないと死にきれませんから」
「あのね、わたしがバイクで送っていくことにしたから」
一度でも沈黙してしまったら、もう言い出せない。
そんな感じで、かなり緊張した声で美登里は宣言した。
「……そうか」
この状況下では、南伊豆町まで行くことが出来るかどうかも疑わしい。まして、帰ってくることなど期待できないことは、両親共々よく分かっていた。さすがのやり手銀行員も言葉に詰まった。
「送ってくる」ではなく、「送っていく」なのだ。
「夜の移動は危険だから、今晩はうちに泊まって、明日の朝出発しなさい」
美登里の父は、気持ちを切り替えたようだった。
「かあさん、昨日買っておいた肉があっただろ? ワインも開けて今晩はステーキにしよう」
美登里と両親の、最後の晩餐。ハジメは自分が邪魔なんじゃないかと心配したが、美登里の父は快く受け入れてくれた。

凄く緊張すると思っていた。がちがちになって、味なんて分からなくなると思った。でもいざ食卓について食事を始めると、笑い声の絶えない楽しい夕食になった。
美登里の父は、銀行の裏話をしてくれて、誰がおいしい思いをしているのかを暴露した。この期に及んでは、もう守秘義務などどこ吹く風だ。
ハジメも学校生活のことなどを話した。美登里のことを話したら、横からパンチが飛んできたが、それも笑いを誘った。
食後に場所を居間に移して、紅茶を飲んだ。どこの銘柄かは分からなかったが、アップルティーだった。普段なら、テレビでも見ようかという流れになりそうなものだが、とうとうOILも放送を停止していた。しかしテレビ東都は頑固にモーミンを流し続けていた。あと六日を切ったんだなということが、テレビ画面の砂漠を見ていてなんとなく思い浮かんだ。
「お風呂が沸いてますから、どうぞ入って下さい」
「あ、すいません」
遠慮しようかとも思った。しかし今日を逃すと、次にいつ風呂に入れるかは分からない。ハジメは美登里の母から真新しいタオルを受け取って、バスルームに入った。
ジェットバスだった。使い方はいまいち分からなかったが、適当にいじっていたら、前後から泡が吹き出してきた。
湯船につかりながら天井を見上げて、ハジメは近々電気と水道も止まるんだろうな、とぼんやり考えていた。

風呂から上がると、布団が用意されていた。
部屋には学習机と本棚があり、教科書と漫画がきれいに並べられていた。半分くらいが少女漫画で、残りはどちらともつかないような漫画だった。
部屋の奥には出窓があって、白と黒の二体の熊のぬいぐるみが置いてあった。
「やあ」
「おう」
本棚から引っ張り出した少女漫画を読んでいると、美登里が部屋に入ってきた。
「そんなところでなにやってんだ?」
「ここ、わたしの部屋なの」
確かに、ベッドがあるのにわざわざ布団を敷くのは変だ。
「それって、つまり――」
「そういうこと。嫌なら出ていくけど?」
美登里の頬はほんのりと赤い。それは緊張しているからなのかもしれないし、あるいは風呂上がりだったからなのかもしれない。
「新井がどう思ってるのかは分からないけれど、わたしは夜、灯りを消して、ひそひそ声で語り明かしたいって思ってる。そーゆーのに少し憧れてたから」
なんとなく席が近かったから仲良くなって、時々ケンカして。たまにグーで殴られて。そんな風にして続いてきた関係に、美登里なりに決まりをつけたいと思っていたのかもしれない。ハジメはそう受け取った。
「いいぜ、どうせ深夜ラジオもないんだし。与太話で過ごすのも悪くないよな」
月の明かりさえ届かない暗闇の中。夢とうつつの中間で、ハジメと美登里は語り合った。教師の悪口、クラスメイトの恋愛関係、食堂のまずいラーメンのこと。
同じ学校生活をしているのに、時にまるで違う視点で見ていることに驚き、また全く同じ感想を持っていることで盛り上がった。
このまま永遠に夜が明けなければいいと思った。どうせなら、今この瞬間に小惑星がぶつかって、終わりを意識することもなく死ぬのも悪くないとすら思った。
それでも、朝は人類に平等にやってくる。カラスが鳴き始めたと思ったら、外が薄明るくなり、やがて鶏が鳴いて朝日がカーテンの隙間から差し込んだ。
「おはよう」
「ああ。おはよう」

   8

銀フレームのゴーグルのついた半キャップをかぶり、美登里はバイクのエンジンをキック一発でかける。洗練されたシングルエンジンが、独特の音色を奏でる。
シートの一番後ろに括りつけた10Lのガソリン缶を確かめて、それから美登里は玄関の所に立っている両親の元へと別れの挨拶をしに行った。
バイクのすぐ横に立っているハジメには、美登里たち三人の会話は聞こえない。しかし、美登里と母親の目が潤んでいるのはよく見えた。最後に、美登里は父親と母親に抱きついて、右手で涙をぬぐいながらバイクにまたがった。
「さあ乗って」
暖気を終えたエンジンをあおる。
「おう、よろしく頼むぜ」
ガソリン缶と美登里の間にまたがり、美登里の腰につかまる。
美登里はギアを一速に入れて、吹かし気味でバイクを発進させた。両親の立つ玄関前を、クラクションを一発鳴らして駆け抜ける。もう、美登里は親の方を見なかった。
今までの時間は両親との時間。そしてこれからはハジメとの時間。
そう美登里は決心しているのだろう。だからもう、振り向かなかった。

生活道路から甲州街道に出て、環八を走る。人も車も嘘のようにいない。所々に放置された車やトラックを縫うようにして、美登里はバイクを走らせる。幹線道路は非常時には通行禁止になるはずだったが、検問もなければパトカーの姿も見えない。おまけに世田谷通りとの陸橋入り口では自衛隊の装甲車が止まっていたが、すでに隊員は逃げ出したようで無人だった。ハジメは使えそうなものはないかバイクを止めて調べたが、めぼしいものは残っていなかった。
二人は環八を南下して東名高速の東京ICから高速に入った。
「高速の二人乗りってもう解禁されたんだっけ?」
風に負けないように耳元でしゃべる。
「まだだけど、別にかまわないでしょ? 今更減点されたって、罰金払わされたって、怖いものなんかもうないわよ」
入り口ゲートでは、無人の通行券発行機がまだ稼働していた。高速料金を払うつもりなどなかったし、どうせ料金所には人はいないだろうと思ったからチケットは取らずに突っ切った。
高速道路は薄気味悪いほど静かだった。
所々にトラックや乗用車が乗り捨ててあるのは環八と同じだが、道が広く、遠くまで見通せる分、不自然さが際だっている。
唯一人がいたのは、サービスエリアだった。フェンスを乗り越えて地元住民が入り込み、自販機の飲み物などを片っ端から買い占めていた。また、自販機を巡っていざこざを起こしている連中もいた。まだ時間も早かったしトラブルに巻き込まれるのは嫌だったから、トイレにだけ行ってハジメたちは再び走り出した。
予想していたとおり、料金所には誰もいなかった。もしいたとしても、それはJHの職員ではなく山賊と化した地元住民だろう。とにかく美登里は全く減速せずに料金所を駆け抜けて、伊豆を目指した。

ほとんどノンストップで走れたから、昼過ぎにはもう伊東の先まできていた。
「そろそろ昼飯にしようぜ」
ハジメのリュックサックには、店から持ち出したコンビニ食が詰め込んである。
「そうだね。燃料も足しておこうかな」
トリップメーターを見て、美登里はバイクを止めた。海岸沿いにある、小さな寿司屋の駐車場だった。
「ちょっと待った! この店、営業してるみたいだぜ」
店先にはのれんが下がっていて、しかも引き戸には営業中の札が下がっている。
「入ってみようか?」
「うん。でも気をつけて」
美登里の警告で、ハジメは『注文の多い料理店』を思い出した。
「こんちはー」
「へい、らっしゃい」
カウンターが数席。それと四人がけのテーブル席が三つほどの小さな店だった。店員はカウンターの中に立っているおじさん一人だけのようだ。白髪交じりの五分刈り頭で、いかにも頑固そうな職人という印象を受ける。
「営業してらっしゃるんですよね?」
「あたりめぇよ。まあこんな時だからネタはここにあるので全部だが、ちゃんと握ってやるぜ」
ハジメはカウンターの冷蔵庫を見た。確かに品揃えは少々寂しい。しかし、贅沢を言えるような状況ではなかった。二人は止まり木に座り、寿司を食べていくことにした。
「後五日で地球が滅亡するって、ご存じですよね?」
美登里が遠慮がちに質問する。この人はもしかしたら、まだ状況が分かっていないのかもしれないと思ったからだ。しかし、店のオヤジは涼しい顔で、
「あたぼーよ」
と返した。
「逃げるとか、やり残したことをするとか、そういうことはしないんですか?」
「お嬢ちゃんよ、」
オヤジは寿司を握っていた手を休めた。
「地球が滅びるとか、隕石がどうだとか、難しいことはよくわかんねぇんだ。ただ、俺に出来るのは寿司を握ることだけだからな。もともと人間なんていつ死ぬかわかんねぇもんだ。だから俺は生きてる限りは寿司を握るんだ」
なんか知らないけれどそういう生き方もかっこいいな、とハジメは思った。そして、自分の場合はどうだろう、と考える。
幼なじみの女の子に会いに行く。美登里を巻き添えにして。ただ、約束を破ってごめんなさいと謝るために。
我ながら、実に身勝手な発想だ。結局の所、あーちゃんに謝ることで、自分はいいやつなんだと思いたいだけなのだ。そうなじられても返す言葉はない。
「ごちそうさん。旨かったよ」
ハジメは、カウンターに万券を置いて店を出た。
「あーりがとございましたあー!」
オヤジの威勢のいい声が背中を押した。とにかく行こう、南伊豆町へ。そして自分の過去に決着をつけなければ先へは進めない。

   9

風景は何一つ変わっていなかった。常緑樹は濃い緑色にあふれ、空と海は青く澄み、風は潮のにおいを含んでいた。
「もうちょっと行ったところにバス停があるから、そこで止めてくれ」
タンデムシートから美登里に指示を出す。
伊豆急の駅をすぎて二三q走ると、『弓ヶ岬』のバス停が立っていた。鉄製のなんの変哲もないバス停標識だがハジメにとっては感慨深いものがあった。潮風と強い日射で色あせて、所々さびている。
「ここが例の秘密基地の入り口?」
「ああ。この先だ」
頭上を覆う濃い緑。差し込む光はわずかだ。暗がりと呼んでも差し支えないような緑のトンネルを進むと、前方に白いシミが見えてくる。トンネルの出口、つまり岬の先端だ。
「あーちゃん!?」
ハジメは見た。真っ白な光の中で麦わら帽子をかぶり、白いワンピースを着たあーちゃんが振り返るのを。
「ちょっと新井! 待ってよ!」
ハジメはトンネルの出口へと駆けだした。全速力で、幻をつかもうとして。
「待ってって言ったでしょ。もう――――」
遅れてトンネルから出た美登里は、石碑と、その前で手を合わせている中年の女性と、膝をついてうなだれているハジメを見た。
「……ハジメ、ちゃん?」
女性が生き霊でも見たかのような表情でハジメの名を呼んだ。
「あの、あなたがあーちゃんのお母さんですか?」
石碑を見て呆然としているハジメに代わって美登里が尋ねた。女性は返事をする代わりに一度だけ大きくうなずいた。
「どうしちゃったのよ?」
美登里もハジメの肩越しに石碑を見る。ハジメにとっては絶対に認めたくない事実が、そこには刻み込まれていた。
『平成九年八月。佐々木敦子ここに眠る』
「おばさん! あーちゃんは?」
ハジメが佐々木のおばさんににじり寄る。
「白血病だったの。あっという間に逝ってしまったわ。ハジメちゃんのことは入院してからもずっと気にしてたのよ。いつかハジメちゃんが電車に乗って遊びに来るから、自分の墓はこの岬に立てて欲しいってね。法律で勝手にお墓を作ることは出来なかったけど、あの子の意志をなんとか残してやりたくて、地主さんに頼んで石碑を置いたのよ」
「そんな……」
ハジメは何一つ言葉が浮かばなかった。病気と闘い、いつまでも待っていたあーちゃん。東京での暮らしにてんてこ舞いで、約束を果たさなかった自分。
ハジメは右のポケットの中身を意識した。ゆっくりとそれを取り出し、自分のこめかみに当てる。
「バカヤロー!」
美登里のげんこつが飛んできた。右手からこぼれ落ちた拳銃が、回転しながら石碑の方へと転がった。
「勝手に死ぬな! 後に残された人のことも考えろ!!」
美登里の言うとおりだった。今まさにハジメが直面している事態こそ、『後に残された人』の気持ちなのだ。
勝手に死ぬことは許されない。だけど、それならばどうやって罪を償えばいいというのだろうか?
「ハジメちゃんは、約束を破ったりしてないと思うわ。ちゃんとこうして来てくれたじゃない。おばさんはとってもうれしい。きっと敦子も同じよ」
「……」
熱い涙が頬をつたってこぼれ落ちた。体の一番深い場所からわき出てくる、一番熱い涙だった。
「涙が枯れるまで泣きな。新井が吹っ切れるまでは、わたしは二番手に甘んじていてあげるから」
へたり込んでいるハジメの隣に美登里も腰を落とした。

寄せては返す波の音を聞きながら、じっと座っていた。空があかね色に染まり、岬に続くトンネルが真っ暗闇に飲み込まれても、まだ二人は座っていた。
「あ、あれ。小惑星かな?」
美登里が東の空を指さした。一等星よりわずかに明るい星が輝いていた。
「そうなのかもしれないな」
ハジメはようやく顔をあげた。もう涙は止まっていた。
「さっきおばさんに聞いたんだけど、ハジメのおじいちゃんの家、まだちゃんと残ってるんだって。後四日、そこに住まない?」
「谷崎はそれでいいのか?」
「うん」
即答だった。
「じゃあ決まりだな」
立ち上がってズボンに付いた埃を払い、トンネルへと向かう。入り口のところで一度振り返り、石碑に向かってさよならを告げた。





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